日本初「植林の地」基山荒穂神社を訪ねて
佐賀県基山は、わが国最初の植林地と伝えられ、筑紫(つくし)の名の発祥地でもあります。ここにある荒穂神社に行ってきました。荒穂神社(あらほじんじゃ)は、佐賀県三養基郡基山町に鎮座する神社です。五十猛神(イソタケル)(イタケル)という日本神話に登場する神様を祀ってあります。
五十猛神は、須佐之男命(スサノオ)の子と言われ、日本で植林をした神様としても知られています。九州で家を作っている私達セイケンハウス株式会社にとって、こんな身近なところに家を建てるために必要な「木」を日本で最初に植えた神様の神社があることを知って感動しました。
五十猛神は、須佐之男命(スサノオ)の子と言われ、日本で植林をした神様としても知られています。九州で家を作っている私達セイケンハウス株式会社にとって、こんな身近なところに家を建てるために必要な「木」を日本で最初に植えた神様の神社があることを知って感動しました。

荒穂神社について境内案内(原文のまま)
当社は「日本三代実録」貞観二年(八六〇) の項の荒穂天神の名で神階昇叙の記事がみえ、 延喜五年(九二七)撰進の「延喜式」神名帳 に社名がみえる式内社(肥前国では四社)で 由緒が古く格式の高い古社である。
藩政時代は基肄郡上郷総社・明治六年郷社 昭和三年県社・戦前は、基山村(町)の産土 神社であった。
祭神は古来諸説があるが民俗学上の原初は 基肄山山頂の玉々石を盤座として農業に恵み を与え、豊穣をもたらす、自然神・産霊神で あると考えられる。貞享元年(一六八四)の 「荒穂神社縁起」には、中央に荒穂大明神 左一に下鴨大神、左二に八幡大神、右一に宝 満大神、右二に春日大明神、右三に住吉大明神の六社としている。
創建は同縁起に人皇第三十七代孝徳天皇の 御代(六四五~六五四)基肄国造物部金連の 後裔金村臣によるとされている。社殿は最初 基山山頂にあったが、戦国の兵火にかかって 転々とし、当地に造営されたのは貞享二年で ある。現社殿(流れ造り)の拝殿は文政二年 (一八一九)神殿・中殿は安政五年(一八五 八)の改建になる。神課は十二人であった。
祭礼
藩政時代は基肄郡上郷総社・明治六年郷社 昭和三年県社・戦前は、基山村(町)の産土 神社であった。
祭神は古来諸説があるが民俗学上の原初は 基肄山山頂の玉々石を盤座として農業に恵み を与え、豊穣をもたらす、自然神・産霊神で あると考えられる。貞享元年(一六八四)の 「荒穂神社縁起」には、中央に荒穂大明神 左一に下鴨大神、左二に八幡大神、右一に宝 満大神、右二に春日大明神、右三に住吉大明神の六社としている。
創建は同縁起に人皇第三十七代孝徳天皇の 御代(六四五~六五四)基肄国造物部金連の 後裔金村臣によるとされている。社殿は最初 基山山頂にあったが、戦国の兵火にかかって 転々とし、当地に造営されたのは貞享二年で ある。現社殿(流れ造り)の拝殿は文政二年 (一八一九)神殿・中殿は安政五年(一八五 八)の改建になる。神課は十二人であった。
祭礼
荒穂神社(伝説の石)
写真右 子宝石
この石に腰を掛け祈願する と子が授かると言ます
写真中 荒穂の神と高良の神の投合 された石と伝えられ石の上部 に指の跡形がついてゐます
荒穂の神の投げた石は高良の 神の神殿下に有る言ます
写真左 荒穂の神の馬が基山の頂上より 飛降りた石と伝えられ馬の蹄の 跡形がついてゐます
この謂れが斎祭の起りと伝え られてゐます(神社案内より)
この石に腰を掛け祈願する と子が授かると言ます
写真中 荒穂の神と高良の神の投合 された石と伝えられ石の上部 に指の跡形がついてゐます
荒穂の神の投げた石は高良の 神の神殿下に有る言ます
写真左 荒穂の神の馬が基山の頂上より 飛降りた石と伝えられ馬の蹄の 跡形がついてゐます
この謂れが斎祭の起りと伝え られてゐます(神社案内より)

植林の神様に感謝を。
木で家を建てられることへの感謝を。
木で家を建てられることへの感謝を。
五十猛神様が太古に植林したと言う基山にある荒穂神社に参拝し、あらためて先人が築いてきた努力のおかげで立派な木が育ち、その木を使って家を建てさせてもらえることに感謝しました。ぜひ、基山の歴史や文化を多くの人に知っていただきたいと思いました。


木の家 波の家は、福岡のハウスメーカー・セイケンハウス株式会社が運営する研究所です。
私たちは、縄文時代から続く家づくり研究を通じて、急速に発展する生活のなかで見えなくなりつつある
自然や文化をもう一度見直し、人間があるべき姿を取り戻していく活動をしています。
私たちは、縄文時代から続く家づくり研究を通じて、急速に発展する生活のなかで見えなくなりつつある
自然や文化をもう一度見直し、人間があるべき姿を取り戻していく活動をしています。
