生松(おいまつ)天神社 糸島市の神社(糸島市志摩久家2813番地)
糸島市の神社
みなさんは「刀伊(とい)」をご存知でしょうか?
刀伊の襲来とは、元寇よりも255年も前に外国から日本が侵略された事件です。その歴史を物語る神社が糸島市志摩久家に残っています。
それは生松天神社。そこに刀伊の襲来について説明が書いてありましたので紹介いたします。
「刀伊」の襲来
「高麗」から南蛮の意味で「刀伊」と呼ばれていた部族で、女直又は女真(じょしん)というツングース系の剽悍(ひょうかん)な民族で、中国東北部黒竜江(アムール川)下流域から沿海州一帯に勢力をもち、日本襲来の約一世紀後には指導者(完顔阿骨打わんやんあくだ)により統一国家を形成し、「遼」を滅ぼして「金」(「大金」)を建国。「大金」が江戸時代初期に「明」を滅ぼして中国に進出大発展し、「清」を称し明治時代末まで続く。
この「刀伊」が海賊となって、平安時代末の寛仁三年三月二十八日(1019年5月6日)突如として対馬を襲い、これに続く十六日間、壱岐、筑前の怡土・志摩・早良、肥前の松浦の諸郡は、五◯艘の兵船に乗って襲来した謎の賊徒によって劫略(ごうりゃく)の限りを尽くされることになる。(悪夢の16日といわれる。)
その風体はすこぶる異様で、多食・多欲、滅多やたらに牛・ 馬を切り食らい、犬を屠り、成人男女は「追ひ取」って船に乗せ、老幼男女はことごとく切り殺したという。
太宰府権師(だいざいのごんのそつ)(次官)藤原隆家の指揮下に藤原助高・大蔵種材(たねき)以下のふ官や文室忠光(ぶんやのただみつ)・多治久明(たじひのひさあき)・大神守宮(おおがみのもりや)・財部弘延・源知ほか各地の多数の住人等が一致協力して奮戦し、敵撃退にこれ努めたといわれる。(大蔵種材は鎮西 原田氏の遠祖である。)
刀伊の襲来とは、元寇よりも255年も前に外国から日本が侵略された事件です。その歴史を物語る神社が糸島市志摩久家に残っています。
それは生松天神社。そこに刀伊の襲来について説明が書いてありましたので紹介いたします。
「刀伊」の襲来
「高麗」から南蛮の意味で「刀伊」と呼ばれていた部族で、女直又は女真(じょしん)というツングース系の剽悍(ひょうかん)な民族で、中国東北部黒竜江(アムール川)下流域から沿海州一帯に勢力をもち、日本襲来の約一世紀後には指導者(完顔阿骨打わんやんあくだ)により統一国家を形成し、「遼」を滅ぼして「金」(「大金」)を建国。「大金」が江戸時代初期に「明」を滅ぼして中国に進出大発展し、「清」を称し明治時代末まで続く。
この「刀伊」が海賊となって、平安時代末の寛仁三年三月二十八日(1019年5月6日)突如として対馬を襲い、これに続く十六日間、壱岐、筑前の怡土・志摩・早良、肥前の松浦の諸郡は、五◯艘の兵船に乗って襲来した謎の賊徒によって劫略(ごうりゃく)の限りを尽くされることになる。(悪夢の16日といわれる。)
その風体はすこぶる異様で、多食・多欲、滅多やたらに牛・ 馬を切り食らい、犬を屠り、成人男女は「追ひ取」って船に乗せ、老幼男女はことごとく切り殺したという。
太宰府権師(だいざいのごんのそつ)(次官)藤原隆家の指揮下に藤原助高・大蔵種材(たねき)以下のふ官や文室忠光(ぶんやのただみつ)・多治久明(たじひのひさあき)・大神守宮(おおがみのもりや)・財部弘延・源知ほか各地の多数の住人等が一致協力して奮戦し、敵撃退にこれ努めたといわれる。(大蔵種材は鎮西 原田氏の遠祖である。)





賊は、四月十一日(1019年5月20日)の未明、船越浦に船三◯艘を持って現れたが、我が方は前もって財部弘延等を派遣して待ち伏せさせていたので、その日の夕刻上陸しようとする敵を散々やっつけ、賊はたまりかねて肥前の方に逃れていった。
日本側の必死の反撃及び五月中旬になり高麗の兵船の追撃が激しくなったこともあって、肥前の松浦を最後として、「刀伊」は忽然として姿を消した。後に残されたものは、死者総計370名、捕虜総計約1280名(270名は後日日本に送還されたという。)牛馬損害約390頭という惨害であったという。(小学館「大系日本の歴史4王朝の時代」糸島新聞社「戦国糸島史」より)



元寇よりも255年前にあった「刀伊」の悲劇。
令和元年は、平安中期の1019年、筑前一帯を来襲した刀伊(とい)の賊の退散祈願社として、糸島市志摩久家の生松天(おいまつてん)神社が祭られ始め1千年たったとして、「創祀(そうし)一千年大祭」が開かれ、船越湾に攻め入った刀伊の賊を、「たづの木」で作った弓矢で撃退したと言い伝えられたことから、この大祭の開催を機に「たづの弓矢」が作成され、同神社に永久奉納されされました。
時代が変わっても悲劇を忘れないようにと地元の人々とともに生松天神社がここにあります。
時代が変わっても悲劇を忘れないようにと地元の人々とともに生松天神社がここにあります。



生松天神社 由緒
鎮座地
糸島市志摩久家二八一三番地
祭 神
菅原道真公(紅梅天神・老松天神も合せ祀るとする資料もある。「福岡県地理全誌」)
例祭日
一月一日(歳旦祭・厄祓祈願祭)、四月十日(金比羅大祭・祈念祭・摂社 金比羅宮)、七月十五日(潮井祭)、十月十七日(神事)、十二月十五日(神事・大麻頒布祭)ほか、一月中旬(古礼・正月メ飾り等焼納祈願祭)、四月四日(晴厄祈願祭)、九月一日(八朔祈願祭)、十月末(神立かみたち祭)、十一月中旬(七五三祈願祭)、十一月末(神待かみまち祭)、毎月一日・十五日(月次つきなみ祭)
由 緒
社伝に曰く「後一条天皇寛仁三年(1019年)南蛮(刀伊)の海賊入寇し、若き男女を犯し且つ金穀を奪取す、因って当神社を勧請し、賊徒退散を祈願し、弓矢を奉納す。今に十二月十五日たずの弓に白羽の矢を宮座当番より各三組を作り奉納す。これその前例に因るものなり。」とある。
住吉は浦(久家地区)の南の海岸沿いに鎮座したが、江戸後期文政六年(1823年)現在地へ遷座される。
神宝に石玉ありといわれており、御神体を納めた箱の蓋に「享保壬子十七年(1732年)二月八日八大竜王磯取揚」との書があり、竜王宮、現綿積神社(船越竜王崎鎮座)前の磯から取上げ、納められたことがわかる。この御神体(神宝)のことは夙(つと)に世に知られ、江戸時代後期の福岡藩の著名な国学者、青柳種信の「筑前国続風土記拾遺」にも「色浅青にして形西瓜の如し。水に浸せば、光沢ありて鑑むべし。」との記載がある。
一説には漁夫が平戸の海中に光るものを見つけ、珍しきものなりと持ち帰ったものともいう。(「同付録」福岡藩士加藤一純著)。
神社名は「生松」と「老松」を交互によく変わっており、老松神社の扁額も幣殿に掲げてある。生松天神社→老松天神社→老松神社→生松天神社→老松神社→生松天神社(現在)・・変遷の理由は不明
境内神社 金比羅宮、稲荷神社、猿田彦大神、恵比寿神社(二社)、秋葉神社等
住吉は浦(久家地区)の南の海岸沿いに鎮座したが、江戸後期文政六年(1823年)現在地へ遷座される。
神宝に石玉ありといわれており、御神体を納めた箱の蓋に「享保壬子十七年(1732年)二月八日八大竜王磯取揚」との書があり、竜王宮、現綿積神社(船越竜王崎鎮座)前の磯から取上げ、納められたことがわかる。この御神体(神宝)のことは夙(つと)に世に知られ、江戸時代後期の福岡藩の著名な国学者、青柳種信の「筑前国続風土記拾遺」にも「色浅青にして形西瓜の如し。水に浸せば、光沢ありて鑑むべし。」との記載がある。
一説には漁夫が平戸の海中に光るものを見つけ、珍しきものなりと持ち帰ったものともいう。(「同付録」福岡藩士加藤一純著)。
神社名は「生松」と「老松」を交互によく変わっており、老松神社の扁額も幣殿に掲げてある。生松天神社→老松天神社→老松神社→生松天神社→老松神社→生松天神社(現在)・・変遷の理由は不明
境内神社 金比羅宮、稲荷神社、猿田彦大神、恵比寿神社(二社)、秋葉神社等


木の家 波の家は、福岡のハウスメーカー・セイケンハウス株式会社が運営する研究所です。
私たちは、縄文時代から続く家づくり研究を通じて、急速に発展する生活のなかで見えなくなりつつある
自然や文化をもう一度見直し、人間があるべき姿を取り戻していく活動をしています。
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