縄文の暮らしに学ぶ
波の家
糸島の歴史
三社神社 (福岡県糸島市井田290)
糸島市の神社
日本人が大切にしていたもの
TVや映画で英雄として描かれる幕末の日本ですが、とくに明治新政府が行った改革は、それまで日本が縄文時代から大切にしてきた伝統を消して行きました。
その一つに神社や鎮守の杜があり、それまで地元で大切にしていた神社を壊して三つを一つにまとめるという作業が日本全国で行われました。
この三社神社が、そのようにして纏められたかはわかりませんが、一の鳥居扁額に、「御子守神社」と書かれ、二の鳥居扁額には、「埴安神」と書かれる不思議な神社。
もともと糸島が糸島郡怡土村だった頃、大字井田字宮の南一町流田にあった神社をこの神社に合祀したと言われます。
御祭神は、「埴安神、玉依姫命、菅公」。
また、ここには「井田用会支石墓」という墓石があり、糸島の文化遺産になっています。
日本古来の伝統を大切にする
明治時代は日本が西欧に飲み込まれ始めた時代。
それから150年が経過して、ますます日本古来の伝統を日本人が忘れています。私たちは古墳や神社などを通じて、私たちの先祖が大切にして来た文化を次の世代に繋げなければなりません。この三社神社を参拝しながら、地元の皆さまが伝統を守ろうとした想いを感じました。
三社神社 三社神社
三社神社 三社神社 三社神社 三社神社
御子守石(おごもりいし)のいわれ
御子守石は、三社神社として合祀された御子守神社に祀られていた石で、彦火火出見命(ヒコホホデミノミコト)が家族である玉依姫(タマヨリヒメ)や鸕鶿草葺不合尊(ウガヤフキアエズ)と休息されたという伝承が今も残っています。
なお、この石は支石墓の一部という説があります。

彦火火出見命:邇邇芸命(ニニギノミコト)の子
鵜草葺不合命:彦火火出見命の子
三社神社
三社神社 三社神社
(写真1)井田用会支石墓から出土した碧玉・製菅玉
(写真2)磨製石鏃
三社神社 三社神社
(写真3)三雲石ヶ崎支石墓から出土した磨製石鏃
井田用会支石墓
この巨石は、現在地の北、400mの水田中から発見された井田用会支石墓の上石です。
初期(紀元前400〜500年頃)の支石墓は島原半島、唐津地方、糸島地方など西北九州の一部から発見されています。 井田用会支石墓の上石は一辺3m、重さ5tを超えると推定される花崗岩の巨石で、国内最大級を誇ります。また、昭和38(1963)年に原田大六氏、大神邦博氏らによる発掘調査が行われ、屍床から碧玉・製菅玉14個が出土しました。(写真1)
国内では副葬品をもつことが確認された数すくない支石博士す。隣接する石棺からは、磨製石鏃(写真2)も出土しています。
周辺では、他に三雲加賀石支石墓、三雲石ヶ崎支石墓など巨石を用いた支石墓が発見され、磨製石鏃(写真3)や碧玉の菅玉など副葬品も出土していることから、この地には、弥生時代の初期から北部九州の他地域に先駆け、副葬品を保有する有力者が出現していたことが明らかになりました。
三社神社 (福岡県糸島市井田290)
祭神:埴安神、玉依姫命、菅公
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木の家 波の家
木の家 波の家は、福岡のハウスメーカー・セイケンハウス株式会社が運営する研究所です。
私たちは、縄文時代から続く家づくり研究を通じて、急速に発展する生活のなかで見えなくなりつつある
自然や文化をもう一度見直し、人間があるべき姿を取り戻していく活動をしています。