縄文の暮らしに学ぶ
波の家
糸島の歴史
八幡宮 前原市の神社(前原市大字東1105)
前原市の神社
糸島周辺を散策していた時に偶然出会った神社が八幡宮でした。その名も「しょうぐんばし」と書かれた橋を渡ってすぐに歴史を感じさせる古い神社がありました。
敷地内に立派な「梛(なぎ)」の木があります。梛は成長が遅い木なので、この大きさは数百年の歴史があると考えます。
八幡宮 由緒
御祭神
誉田別天皇(応神天皇)息長足姫命(神功皇后)比賣( ひめ)大神 現在は祇園宮と天満宮を相殿に合祀する。
建立 応和三年(963年)9月13日
正五位上太宰少弐対馬播磨守 征西大将軍 原田春實公
天慶三年(935年)逆臣伊予掾藤原純友を討伐(天慶の乱)し得たるは、一に神霊の加護によるとして、その子泰種( 従五位下太宰貫主長門守)と共に山城国(京都)南男山の神霊を勧請し奉ったのが当八幡宮鎮座の由緒である。
その後も原田高祖城主(怡土城・原田城)の崇敬厚く、原田八幡宮と称された。
種直公 原田春實公の子孫 従五位太宰少弐筑前守原田種直公は、源平の戦いで安徳天皇を守護し奉り、壇ノ浦に源義経と戦って敗れ鎌倉扇谷に幽囚されること13年。
この間牢中に在りて旦暮八幡宮に祈誓すること久し。感応験在り、建久八年(1197年)免されて岩門城(筑紫郡安徳村)に帰る。種直公はその神澤に感謝せんと欲するも距離遠隔意の如くならざるを以て国政をその子に禅り、当八幡宮の東約百米付近に假(仮)宅を設けて此処に住し、八幡宮を修補し崇敬した。この仮宅は原田の館屋敷と称され、面積約三千坪で周囲には池を廻らせていたが、今は畑となっている。種直公(内大臣平重盛の養女を娶る)は、また平重盛家盛朝臣菩提の為建仁元年(1201年)二丈町波呂に龍國寺を創建した。種直公の墓は当八幡宮の南隣にある。 平成五年三月 宮崎市 原田稔 寄進
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御神木 梛(なぎ)
当八幡宮の御神木梛は、和歌山県新宮市の熊野速玉大社の御神木と同じ種類の木である。
何時の時代に如何なる理由で、誰が御神木として植えたか定かではないが、梛は成長が遅い木であるから、樹齢は相当古いものと思われる。
熊野大社の御神木は、平重盛公手植えと伝えられていて、国の天然記念物に指定され、また新日本名木百選にも選ばれている老樹である。
古来梛は「凪」に通じ平和の木として、現世安穏を説く熊野権現の象徴木として知られており、山伏や、比丘尼(びくに)、が梛の小枝を授けながら熊野信仰を全国に広めたことは有名である。
近くは、沖縄本土復帰に際しては、永遠の平和を願い同県下の各学校が梛を記念植樹したと云晴れている。
現代でも熊野詣で賑ふ社頭では良縁を願う若い女性や嫁ぐ際に鏡台や箪笥の底に納め無事に添い遂げられる事を願う女性達が梛の葉を拾い大切に持ち帰って行く姿が多く見られると云う。鎌倉時代の歌人藤原定家も「拾遺愚草」の中で国の繁栄と平和を願って熊野参拝の折
「千早ぶる熊野の宮の梛の葉を変わらぬ御代(みよ)の試しぞと祈る」と詠んでいる。平成六年申戌葉月吉日
八幡宮三十六代 宮司誌す(資料)
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