幼少期
父親が死んだと姉から電話が入った。私はその時、京都に向かう新幹線のなかだった。急ぎ折り返し実家へと向かう。島に帰るのは久しぶりだった。
照り付ける太陽。焼けすえた潮のにおい。フライパンのように熱いコンクリートの桟橋。波のように揺れるサトウキビ。潮風で錆だらけになった軽トラック。自動車が来てもおなかを見せて愛想をふりまく三毛猫と耳のやぶれた老犬。台風でひき裂けたバンジロウの木。家より大きくなった一面ピンクの花が咲くサルスベリの木。真っ赤な実の付く魔除けの大ソテツ。濃いみどりのサトウキビ畑に響く正午と五時のサイレン。西風に乗ってやってくるおばちゃん達の笑い声。二十年前となにもかわっていない人と匂いと静かな景色。
玄関から入ると縦に割れた壁板がある。座敷に上がるとニャロメとガッチャマンのシールが貼ってある薄汚れた大黒柱がある。真っ黒な大蛇のような梁には、丸出しの電線をとめる白い碍子が三つみえてくる。仏壇の横にある煤けた色のじいちゃんと婆ちゃんの白黒写真。日に焼け過ぎた広い縁側には、タバコの焦げ跡がやけにめだっている。自分は確かにこの場所で育ったのだ。まじまじとよくみると、小さくて、暗くて、キズだらけでボロボロ。そして屋根が曲がっている。今にも崩れそうなのにしっかり建っている。このやぶれ家は、一瞬にして私を子供の頃に引き戻した。
父が十八才の時に建てた家である。
私の父は戦後、祖父が早く亡くなったこともあり、兄弟を養うために、高校を中退して、農業をしていた。現金が、必要だったため木材の山出しの仕事も始めた。木を斧で切り倒し原生林の中を馬で木をひきだす仕事。その当時はてっとり早く現金になったらしい。この家も自分で木を伐採し山出しして大工の見様見真似で木を組んでいったらしい。お金が無かったので大工に頼まず、仲間と力を合わせて家を建てた、といつも焼酎を飲みながら自慢げに話していた。
父の暮らしは、朝日とともに働き、夕日とともに、仕事が終わる。日が暮れてから家の縁側で仕事着のまま気の合う仲間と焼酎を飲む。稼いだ金は、お袋に全て渡し、財布ももたず、いつもプラスチックのタバコ入れに二百円と免許証だけ入れている。酒の肴は、毎日近くの誰かが、玄関先に勝手に魚や野菜をおいている。私は三才くらいからいつも親父がのんでいるそばにいた。親父の仲間に焼酎をつくるのが、私の役割だった。私は、それがいやだった訳ではなく、すすんでそうしていた。親父が仲間達と楽しそうに飲む姿をみて、自分も楽しかった。自分も大人になれた気がした。なによりその雰囲気が大好きだった。何気ない島の流儀がそこにあった。
学生時代
私が小学五年生の時に、ある事件が起きた。養鰻場の経営をしている伯父の会社が倒産したのだ。伯父は家と全ての土地を失くした。自分が大好きなおじさんだった。従兄たちも仲がよかった。みんないなくなった。そして父親は、保証人になっており多額の借金をかかえる事になった。
母親が言った。
「今迄の3倍畑をつくり、人の3倍働けば、なんとかなる」
父親も一言
「うん。借金かるうても命は取られん。」
と静かに言った。次の日から父と母が、年寄りだけの農家を一軒、一軒頭を下げて廻った。畑仕事がきつくなった年配の農家の畑を貸してもらうのだと言う。お礼として収穫の十分の一を返すそうだ。その事をあらかじめ知っていた農家の人達は、快く畑を1枚、又1枚と貸してくれた。1週間で本当に畑が、3倍になったのだ。それに合わせて、自分達の手伝いも三倍になった。朝、晩の牛の世話、アスファルトが溶けるような暑い日も、西風で自転車が前に進まない風の日も、めずらしく雪降りの日も、いつも畑にいた。家族中が忙しく金も暇もない状況であったが不思議と家の中は明るかった。母親は、いつもこういっていた。
「正しい事を毎日しとけば、怖れることは、なんもなか」
「大雨が降ろうが、大風が吹こうが、天のする事に、文句は言われん。いつも、野菜も魚も天からもらいよる。なんかあった時は、神頼みじゃなか。ちょっとでも良くなるごと、人は働くしかなかと。」
「働く時は、どげな時でも上機嫌でせないかん。気分を出していかんば、気分を。気分を出して上機嫌で働く人を天は好きやから」
母親の気性で我が家は成り立っていた。父親は、いつもお金にならない仕事ばかりしていた。
木の伐採である。その当時はすでに通常の伐採の仕事はなくなっていた。いわれのある木の伐採が多かった。特に樹齢が三百年以上の木は、木霊が宿るとされ皆切りたがらないのだ。皆祟りをおそれていた。父親は、喜んでそれを引き受けていた。皆から頼りにされる。人の役にたてる。ただそれが嬉しいのだ。報酬は焼酎二本でうける。一本は、木霊に奉献する。もう一本は、自分の取り分だ。子供の時に父親になんでお金をもらわないのか聞いたことがあった。父親は若い時に、金の為に多くの木を切り過ぎた。その時にとまり木も高額の報酬でたくさん切っていた。その度に高熱がでて、物知り(霊媒師)にお祓いをしてもらっていたらしい。父親が言うには、自分の欲だけで木を切って、山を荒らしていた時は、山と木霊に嫌われていたと話していた。人が木の事で困っている時、人が本当に木が必要な時に、山と木霊に道理を話して木を切り出したら、山と木が優しくなり、自分達を守ってくれると言っていた。私は、子供で父親のいっている意味は理解できなかったが、単純にそうなんだと感じていた。山や土地の神様に守られたのかは、わからないが、母親から聞いた話によるとその時できた借金は、なんとか二十年で完済したらしい。
長浜の
屋台時代
父親の葬式がおわり家にかえった。私の兄弟それと孫、親戚、近所のおじさん、おばさんがあつまった。孫達は、常に、はしゃぎ廻っていた。親戚と近所のおじさん達と僕ら兄弟は、昔の話をしながら大宴会をしていた。とかく酒飲みだった父親には、理想の送り方であったと思う。夜もふかまり、満天の星がでていた。皆が寝静まった時に、私は、起きていた。年期のはいった黒光りした柱をみながら、父親の事を考えていた。十五歳から兄弟を養い、自分の家族をもってからは、義理の弟の為に借金を返済した人生だった。それでもいつも楽しそうだった。山にはいって木を切り、畑を耕し、酒を飲む。その姿をずっとみてきた。私は、高校生になった頃には、俺は人の為に生きる人生なんか絶対に嫌だ。自分で金を稼いで自由に生きるんだと。親父のようには、俺はならないと自分に誓っていた。それから二十年がたち自分が自由なのか、自分が生き生きしているのか考えてみると、全然生き生きしていなかった。
その頃私は、不動産会社の役員をしていた。収入はあったが、稼いだ金は、飲み代にかわり、忙しいと理由をつけて子供の運動会にもいったこともなく、接待ゴルフに明け暮れる毎日。鬼軍曹として毎年売上目標を達成することが全てで、人生の目的など考えなかった。金を使うより、金に使われている日々がそこにあった。私心に使われていて、真心を使ってなかった。人に勝った負けたの繰り返しで、欲の螺旋の終着点は、永遠と見えない。廻りはすべて敵ばかり。人を押し退け、押し退けして生きてきた。これが、自分のしたかった事なのか。
20代
充実した人生とはなんだろう。人生の成功とは、なんだろう。
私は父親より確実に稼いできた。父親の人生より自分の人生が充実しているはずだった。父親の人生と、私のいままでの人生とは、何かが違う。なんであんなにいつも楽しそうだったのだろう。重荷を背負って生きてきたはずなのに、なんであんなに笑えるんだろう。父親の葬式には八〇〇人の人が来ていた。俺の葬式に何人の人が集まるだろうか。気がつくと本当に信頼して酒を飲む友人もいない。利害関係なしで遊ぶ友人もいない。本音で語れる仲間もいない。
いつも虚勢をはった自分がいる。
これが自分の真の姿なのか。偽の姿なのか。
こんな事を想いながら、薄暗い家をぼんやりと眺めていた。キズだらけで、穴があいた壁を見ていると素直な子供の頃にもどった気がした。今の自分を清濁あわせこんで包み込んでくれる優しさが、このやぶれ家にあった。キズだらけの家が、なにかを話しかけてくるようだった。本当の自分らしく生きてみたらといっているかのようだった。無理をせんでありのままでいいよといってくれた気がした。
その時ふと、私が大学をやめた時に、無口な父親に言われたことを思い出した。
「おい(俺)は、人と焼酎が飲めて飯が食えれば、そいでよか。なんもいらんできた。
わ~(お前)が、学校をやめようが、これからよか会社に入ろうが、どんだけ稼ごうが知ったこっちゃっなか。
おい(俺)は、金儲けはしきらんやったけど、
おかげさんで人儲けだけはしてきた。
ぎょうさんの人に助けられて生きてきた。
今のわ~(お前)に言いたいことは、そいだけしかなか。
好きな事せ~
わ~(お前)の生き方はわ~(お前)で決め~。」
私は怒られると思っていた。しかし父は、いつものように焼酎を飲みながら、静かにかみしめるように私につぶやいた。
二十年前の言霊が自分にそっとおりてきた。
やぶれ家が自分の記憶と心を呼び戻した瞬間だった。
30代
父の葬式が終わり、その後私は程なくして会社を退職した。競争のレースから降りる事にした。
そして自分の好きな家をつくって生きていく事にした。
必ず人は、家を巣立っていきます。そしてまた帰ってきます。子供達は遅かれ早かれ社会に旅立ちます。そこには、たくさんの困難、障害が待ち受けていることでしょう。そして挫折を味わい深みのある人間に育っていくのだと思います。子供にたいして親が教えられる事は、ごくわずかです。社会にでてから、いろいろ学ぶ事が多いと思います。将来たくさんの人達がありのままの心に、リセットしてくれる場所を私はたくさんつくりたいのです。人が生きると言う事は、人を傷つけ、人に傷つけられながら生きていきます。又、人に励まされ、人を励ましながら生きていきます。親から子供へと引き継がれる家は、親がいなくなった後も、子供へとなにかを伝える手紙のようなものだと私は、感じています。
人の想いと思い出は、永遠にのこります。
家族の歴史を刻む空間を私は、むしょうにつくりたくなったのです。
どの家庭も日々是好日でその瞬間だけみれば、良い日もあれば、悪い日もあります。でもどんな日であったとしても、それは、かけがえのない人生の糧になる素晴らしい一日です。なにがあってもみんなが、元気になって溌剌と生きられる家をつくっていきたいのです。
これから人生のたくさんの壁にチャレンジしていく子供達のためにも、そして人生の壁にぶつかり、何度も立ち上がる大人達のためにも、三十年後も五十年後もいつも優しいメッセージを届ける家をつくっていきたいのです。
セイケンハウス株式会社
代表 西田 雄三